盲目のひと。

盲目のひと。

その人は自由だった

大きな石ころや、滑った水たまりも

彼女の目にはみえない

肌に触れる風と
空の青さは違うものではなく
同じ

太陽の光りと
草木の匂いはバラバラではなく
つながっている

彼女の先をすいすいいく人は
転ばないように
つまづかないように

よーく目をこらして
下を向きながら
目の前の障壁をどんどん超えて
目的地にたどり着く。

盲目のひとが観ている青空はどんな色なんだろ。

盲目のひとが観ている私はどんな人なんだろう。

私たちは何をみるために 
この目があるのかを知らない
私たちは何をみたくて 
目をあけているのか分からない

未来の不安に怯えながら
効率的に安全に
誰かに負けないように
目的地にだどりつく

そのためにこの目があるのか?

見えることが当たり前
存在するのが当たり前に
生きている限り
それは分からない。

人間がどこから来て
どこへいくのか?

なんの為に
どこへ行かなければならないのか?

それも分からない。

たくさん握りしめている
知識、観念、経験を
すべて手離し

ゼロになれた時
そのこたえがわかるだろう。

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以前、バスの中で盲目の方と出会い、目的地が同じだったので、手をもってエスコートする機会がありました。

私は自分が見えるのが当たり前ですから
そこから盲目のひとの立場になって
彼女の役に立つ為に
足元を注意しながら周りの人や建物が障害にならないように
彼女に伝えていました。

その時彼女が私に一言
『今日の空はどんな空?』

私はドキっとしました。

私は目が見えないということを
見えるのが大前提、当たり前の観点から
良かれと思って、彼女の役にたとうとしてたんです。

それは私の大前提、当たり前の観点に固定されていて、
彼女のいろんな可能性を観れなくされていたということです。

見えないことが大前提ならば、それは不自由でも、障害でもありません。

見えることと比べた時に、
見えないことの不自由さや課題がみえるのです。

でも逆にいえば、見えることの不自由さを知る事ができました。

見えることが当たり前になると、見えることの素晴らしさや、神秘、感動がわからず、その意味や価値にもきづかなくなってしまいます。

見てる世界が絶対だと思い込んで
そのプロセスや仕組みを観ようとしない。

自分と太陽
自分と風邪
自分と彼女
はバラバラで分離して見える。

それによっておきる障害が
いろんな問題を引き起こしていきます。

本当の自由とは何か?
について考えてるきっかけになりました。